ワーママのアメリカと日本の子育て

弁護士の子育てサバイバル日記

SympathyとEmpathy

シカゴではギャングが暴れ始め、銃撃戦による被害者なども出てきて、トランプ大統領とシカゴ市長が政敵なこともあり、トランプの指示で動く連邦軍が、民主党政権のシカゴに投入されるか、というところまできている。シカゴ市長はあくまで連邦軍は拒否(連邦軍にかこつけてトランプ政権が色々悪いことするから)、ただしギャングや銃撃戦について連邦法違反の調査のためのFBIなどには協力する、というスタンスだ。

 

コロナやBlack Lives Matter(BLM)の運動があって、さらにギャングや銃の問題もあって、シカゴ市長が記者会見をやらない日はほとんどないんじゃないかと思う。それから最近では、南北戦争のときの南部(=奴隷州)の英雄や植民地化を彷彿させる英雄の銅像が全国的に次々に壊されており、シカゴも例外ではなく市民と警察官が衝突し負傷者が出たので、しばらくの間撤去されることになった。

 

前はデモといえば、コロナによるロックダウンに反対するデモだったが、そこにBLMが加わり、今は連邦軍の投入に反対するデモやヒスパニック地位向上を主張するデモなどもあり、毎日のように在シカゴ日本領事館から、デモのお知らせメールが届く。あと、おそらく我が家の隣りのホテル、営業を再開してから、シカゴ市外からデモに参加する人の宿泊先になっている気がしている。多少のエチケットはおくとしても、マリファナ吸い過ぎ、、、隣りのホテル、こんなこと今までなかったので、多分組織的に集まってやってるんだと思われる。。。

 

他方で、経済の再開は段階的に進んでいて、美術館や博物館もドアを開け始めた。様子見も兼ねて一人で現代美術館に行ってみたら、「美術鑑賞より命が大事」などと書いたプラカードを持った人たち(若者が多かった)が座り込んでいた。そうだよなぁ、と思ってうろちょろしていたら、「入口はあっちだよ」と教えてくれた。親切でびっくり。

 

館内は想像以上に混んでいたのだが、展示の内容に本気を感じた。コロナ前のアートではあるが、コロナでテーマとなった「loneliness」や「connection」を鍵にして集めたアート、最近の排他的な移民政策を受けて、メッセージ成功溢れる「diversity」や「integration」をテーマにしたコレクションなど、文字通り価値観が揺さぶられるような展示の仕方だった。今まで現代美術って意味不明って感じだったけど(まぁ今回もそういう作品がなかったわけではないけど)、Collectionにもdesignがあるのだというメッセージが、すっと入ってくる。

 

伝統的な美術館は、国ごとや時代ごとに作品を並べている。だけど、例えば仏像の横に現代のアメリカ人女性の写真を並べたらどうだろう。アフリカの現代アートの横に、ヨーロッパの貴族の肖像画を並べたらどうだろう。すごいぐちゃぐちゃになるんじゃないかとも思えるけれど、何か「似ている」作品が隣同士に並んでいて、面白い発見がある。

 

写真って今まであまりアート作品として触れたことはなかったのだけれど(不思議だけど携帯で手軽に写真撮れる割には身近じゃなかった)、写真家が計算して撮った写真というのを見て(解説つきでだけど)、奥深くってまじまじ見入ってしまった。白髪のおじいさんと若い女性のツーショット。二人の距離から「親子かな」と思ってしまうが、実際は赤の他人。同じ女性が別の男性とやはりツーショットを撮っており、これもまた親子に見える。この2枚の写真を並べて展示する、写真家の思考実験の一環だった。

 

本当に価値観が変わるようなことが毎日色々起こるが、デモで行動している人たちを見ると、ニュースを流し聞きするだけではなく私も行動したいと思う気持ちが出てくる。英語だと、sympathyというと、自分は感じることはできないけれど他人の気持ちを理解する(日本語だと同情?ちょっとニュアンス違う気が)、という意味で、empathyは、他人の気持ちを自分の気持ちとして感じる(日本語だと共感)、という意味。そこでsympathyじゃなくempathyを持とう、当事者になろう、ということがよく言われたりするが、当事者として経験していないことは理解できても自分のこととして感じることはできない。黒人差別の歴史について学んで理解しても、私はそれを自分のこととして感じることはできない。でも、それでいいような気がしてきている。経験していないことを自分のことのようにわかったふりをするのはむしろ見誤る可能性があるし、当事者にない視点を持つことも価値がある気がする。

 

友人が、社会をカスタマイズする方法としての公共訴訟、ということで公共訴訟のプラットフォームを立ち上げた。何か問題があったときに、問題を解決していくのではなく、それを問題にした社会の方をカスタマイズしていく、という発想が面白い。例えば公害という問題があったときに、訴訟で争うことで、公害被害者を救うだけでなく、公害を容認していた行政を変え社会を変えることができる。LGBT+の問題も、今までの価値観から社会をより住みやすくするための一つの方法として、訴訟という方法がある。

 

このように、訴訟というのは当事者だけでなく、制度や社会の価値観にインパクトを与えることができる。だから「公共」訴訟というのだが、これには訴訟で当事者として戦っている個人だけでなく、たくさんの応援する人が必要。友人がやっているプラットフォームは、その個人と応援する人をつなげるものだが、応援する人をより獲得していくには、当事者の思いをうまく伝えなければならない。

 

そこで、そのプラットフォームでは、訴訟の概要だけでなく当事者のストーリーも公開している。これは当事者が明るみに出ることと引き換えなので、写真や実名の使用には十分気をつけないといけないが、友人曰わく、ストーリーを出すときのポイントは、「怒りだけではなく前向きなイメージを入れること」だそうだ。怒りだけだと共感できないかもしれないし、当事者ではないからそこまで強い感情は持てないこともある。でもそこに「応援しよう」と思わせる前向きなメッセージを込めれば、反応が変わるそうだ。もちろん、怒りは出発点だったりするし、これでハッピーエンドです、と問題を単純化して終わりにしてはいけないのだけれど。

 

英語には、compassionという言葉もある。日本語だと「思いやり」などと訳されたりするが、これはさらに行動をとる(take action)ことまで含まれる。よく「知ることから始めよう」と言われるが、この情報社会、知っていることはたくさんあって、知らなくてもすぐ調べて知ることができる。だから、大きなハードルは、知ったことをもとに行動に移す段階で、そういう意味ではcomapssionを持つことが一番大事なのかもしれない。友人のプラットフォームは、当事者のストーリーから「知る」「理解する」という機会を提供し、さらに応援したいと思ってもなかなか何をしたらいいかわからない人に行動を促している。本当に素敵。